講談の「仙台藩が赤穂浪士に茶・粥を振るまった」の理由に迫る!
国民的時代劇といえるであろう忠臣蔵。そのサイドストーリー的に、講談などでは、仙台藩が赤穂浪士に茶か粥だのをふるまったなど語れられている。真偽はさておき、茶や粥をふるまっていてもおかしくはない理由が仙台藩には実はある。それが、播州赤穂の入浜式塩田を導入した気仙沼の波路上塩田である。そんな波路上の塩田をめぐる今昔をかるく浅掘りしてみましょうか。
大いなる勘違いだったかもしれない気仙沼の「階上」という地名の由来
気仙沼に、あの国民的時代劇『忠臣蔵』のサイドストーリーがっ!?
はじめにお断りしておこう。今回、このコラムのサブ見出しにつかった、講談の「仙台藩が赤穂浪士に茶・粥を振るまった」の理由に迫る!という文言であるが、正直にいうと釣り見出しに近い。
資料類にあたりながら、見たいように情報を整理すると、導き出した結論は、「自分が見たかった世界」「己が導きたかった答え」になる。こういうのが過度になり精鋭化したような状況を、ネット社会ではよくエコーチェンバー現象などと呼びますが、まさしくそれ。まぁ、今回はこういうのに陥った、に近しいお話。したがって、3章目にあたるところで、仙台藩、赤穂義士に粥をふるまっていてもおかしくない理由としてますが、単に状況や事象を並べて、ほかの要素を排除し、目をつぶっただけ、そんな内容とご理解ください。
そんなわけで、「こういう背景もあったから、この話は無理筋だろ〜!」なんて、無粋なツッコミはナッシングですよ〜。
さて、言い訳が終わったところで、他のコラムに「シリーズ:東京で仙台をみてまわる!芝邸・浜屋敷編」っていうのを書いてました。そちらは東京都港区汐留の仙台藩の上屋敷跡に足を運ぶと2つの案内板があることなどをご紹介。そして、その文言の中に、あの国民的時代劇『忠臣蔵』の赤穂浪士に「仙台藩が粥をふるまった」ってあるけど、これホント?と講談などを元に浅掘りしてみました。
口伝のような資料や講談で追っていくと、ある人物にたどり着き、どうも、「疑惑は深まった!」な状態で有耶無耶に・・。そこで、今回は、三丈の地元、気仙沼と赤穂藩との関わり、そして、当時のできごとから浅掘り検証してみましょう。
偉い先生の言葉を、まるっとそのまま信じちゃいけない!
今回のお話の舞台は、宮城県気仙沼市波路上というところになる。気仙沼の市街からは、ブップ(通称、「自動車」とか「車」というらしい)で20〜30分くらいの「階上地区」に位置している。三丈的には、子どものころ週3くらいで足を運ぶところだったので、とても馴染み深い。
個人的なことはさておき、この地区、明治時代になり、波路上村、長磯村、最知村、岩月村の4つを合併して新しい村として成立。そのときにつけられたのが「階上」という村名である。そして、この村名が、なんとも由緒のあるところから名づけられている。
波止上乃村名此乃往昔階上郡之地也、後人其文字ヲ誤テ舊名ヲ失者也。
『奥羽観蹟聞老志』著・佐久間洞巖 より
三丈的、超意訳をすると、、、
最近は、波路上(ハチカミ)なんて読んでるけど、あれはもともと波止上(ハシカミ)で、いにしえの『陸奥話記』に云う「階上郡」のことっ!のちのちの人が勘違いをして、もとの名が上書きされたものだって!
といったところ。
まぁ、要するに、延暦四年(西暦785年)大伴宿禰家持の奏(『陸奥話記』)にでてくる「多賀階上の二郡を置く」の階上郡は気仙沼の波止上(波路上)のことだとのこと。実は、この見解『奥羽観蹟聞老志』以降、『封内名蹟志』や『封内土産考』でも「波止上乃村名此…云々」と、今どきで云えばコピペされていく。
ん?なに?ちょっと待て!と、、
それは、科上と書いて「しなのえ」と読むと、、(えっ?)
奈良文化財研究所の古代地名検索システムでも階上は科上の「異表記」扱いだと、、(えぇ〜っ!)
昨今の定説では、仙台郊外の根白石あたりのことだ、と、、、(なっ、なんですと〜っ!)
ということで、三丈、高校生のころの昼休みの愛読書の一つ『本吉郡誌』(飲食厳禁の図書室で、おにぎり食べてたのは内緒)でちょっと確認してみましょう。
村名考證【観跡聞老志】に波路上は新しき文字なり。古字は波止上は正しき文字なり。波路上郡卽り往昔階上郡の地なり。後人の文字を誤りて舊名を失す。ーーと。
『本吉郡誌(旧版)』 p.626〜 階上村 より
【和名抄】延暦四年多賀、階上の二郡を置く。階上後に作りて科上とす。考證するに「シナカミ」と讀むべく、今の宮城郡根白石村の地であると言われている。
偉い人の本だから、とか、どこぞやの大学の教授のお話だから、と真に受けては行けないってことですね。それにしても、佐久間洞巖先生が指摘した誤りが、実はそもそも勘違いで、それを真に受けて地名にした、というのも中々にオチのあるはなしである。
河北選書で『地名は知っていた』というのであれば・・
では、階上の地名の元となったであろう「波路上」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか?
まぁ、これはひと言でいうと、「字面どおり」という回答になる。そう、「波が路の上をいく、のまま」と云ってよいのだろう。そのことは、前述の本吉郡誌の引用のつづきに記されているのだけれど、参考にしたであろう『日本先住民族史』藤原相之助・編(仁友社)から、確認してみましょう。
本吉郡なるはハチカミなり、ハシカミの音にあらず、古への階上郡ならざること明らけし、ハチカミの原地は波路上明神崎にてパッチエカマイ波浪を飛越える所という義なるべし、後志國瀬棚郡のパツチエイも波浪飛ぶところの義カマは飛越える意なり、蝦夷語のパをハとしペをべとするは日本語の發音なれば、パツチエをハチとしカマイをカミと變じたるならん、この邊古への桃生郡の奧にて延暦の頃には日本人の足蹟たも印せざるべし、郡を建て官員を置くなどのことあるべき筈なし。
『日本先住民族史』藤原相之助・編(仁友社)
引用文中、「波路上明神崎」とありますが、この明神崎は気仙沼市本吉町大谷の沼尻海岸東端の岬状の磯周辺のことではないかと推測(内湾の神明さまでもないだろうし)。おそらく同じ地区のお伊勢浜および御伊勢崎と混同したものでしょう。また、「蝦夷語」と書かれておりますが、昨今の日本人のゲノム解析などに、言語を照らし合わせると「前大和言葉」や「縄文語または縄文言葉」とする方が、もしかするとしっくり来るのかもしれない。
いずれにせよ、古い日本語の音(響き)のパッチエカマイが変じて、ハチカミになり、その意味するところは「波浪が飛び越えていく所」。すなわち、「波が路の上をいく」という、文字どおりな意味になる。しかし、残念なことに『地名は知っていた』著・太宰幸子(河北選書)の岩井崎や付随するお伊勢浜海水浴場のくだりには、「波路上」という地名の由来は触れられていない・・。
ところで、引用文の最後の文言(この邊古への桃生郡〜官員を置くなどのことあるべき筈なし)は、何気に辛辣である。なにせ、「延暦の時代に、桃生郡よりさらに奥の僻地に、郡をつくりわざわざ役人を置くなんてあるはずなかろうもん!」ですから・・。
まぁ、気仙沼市本吉町府中(旧平磯村側)には、府中館という多賀城の出先機関(館というより関所?)とされる遺跡がある。もし波路上が階上郡なのであれば、程なく撤収されたにしても遺構・遺跡の類が見つかっていて然るべきだろう(時代的には、もう少し後のものになりますけどね)。それが見当たらないということは・・。やはり佐久間先生の「か・ん・ち・が・い」、そう勘違い?それにしても、地誌や伝承によらない言語からくる地名の由来というのも面白いものがある。
さて、前置きがとても長くなりましたが、こんな気仙沼の波路上です。なんと播州赤穂の入浜式塩田が導入されていたところなのでした。
資料・史料でみる波路上塩田の今昔ばなし
佐藤三右衛門、諸国視察ののち播州赤穂の入浜式塩田を目撃す!
江戸時代、仙台領下本吉郡波路上村(現、宮城県気仙沼市)には、播州赤穂の入浜式塩田が導入されていました。現在は、宮城県気仙沼向洋高等学校の校舎跡を活用した東日本大震災の震災遺構となっており、塩田があった面影はない(まぁ、元の校庭を活用したパークゴルフ場の広さくらい?)。
導入の時期は、天和二年(西暦1682年)のころからのことで、明治維新になり仙台藩が手を引いてから衰退の一途をたどる。その後、明治の海嘯で壊滅的ダメージを受け、塩田としての役割にほぼ終焉を迎える。したがって、仙台藩の物流、食、財政をささえる大きな産業の場として、およそ200年ほど存続していた。
導入に尽力したのは、佐藤三右衛門。仙台領下本吉郡馬籠村(現、宮城県気仙沼市)出身の人物で、本家筋は仙台藩の製鉄の創始者佐藤十郎左衛門にあたる(分家といか地元ことば表せば別家(ベッカ))。製鉄の改良を計るべく創始者と同様に中国地方を視察、その帰路赤穂藩に立ち寄り入浜式塩田を目にする。これが延宝八年(西暦1680年)こと。
その後、三陸沿岸の志津川、歌津、小泉、気仙沼の村長・豪商ら9人で出資し、藩の許しのもと赤穂藩に談判。藩主浅野長矩(そう忠臣蔵で松の廊下で事件を起し、切腹させられた浅野内匠頭)の家来から許しを得て、2名の技術者を気仙沼に招聘(翌天和三年、大工も追加)。こうして民営でスタートしたのが、波路上の塩田になる(のちに藩営、三丈的には第三セクターっぽいイメージ)。
当初は、既に気仙沼にあった鹿折の塩田(東日本大震災で大きな漁船が打ち上げられた映像がありましたが、あのあたり)を改修する計画でいたとのこと。ところが、赤穂の塩師からすると、「気仙沼湾の塩分濃度が薄い」との判断で、鹿折案を却下(鹿折金山の方から流れる川が嫌だったんですかね・・)。土地からあらためて選定し直し、赤穂の塩師がよしとしたのが波路上でしたとさ。
この塩田の導入により、当時仙台藩が取り入れていた揚げ浜式塩田や古典的な素水釜の法よりも、質・量ともに向上する。さらに、その技術が三陸沿岸の各塩田に影響を与えていくことになる。
これが、仙台領下、播州赤穂の製塩技術が取り入れられた「波路上塩田」導入の概要になる。それにしても、「波が路の上」なんて字面の土地に、入浜式塩田をつくったというのは、「ここに塩田をつくってくれ!」と云わんばかりのお話に見えてくる。
ちなみに、ここに記した内容は、『階上村誌』、『本吉郡誌』、『本吉町誌』の記述をざっくりまとめたものになる。「ホンマかいね?」と思ったあなた、ちょっと図書館にツラカ、、もとい、宮城県図書館のみやぎ資料室のコーナーにでもに行ってみましょうか。
仙台藩御用達、藩主が贈答品に利用する名産「波路上花鹽」
先に引用していた『奥羽観蹟聞老志』(著・佐久間洞巖)。あの引用文は、「波止上䀋竈」という項目の一部になる。あの文章以下は、波路上塩田を導入した人物(三右衛門ほか)、製塩法、広さ(小屋がいくつ、釜がいくつ)、などが紹介されている。
瀕海之地ヲ闢、煑䀋ノ之場ヲ設。其地也白沙渺々綠水漫々天和三年癸亥始テ興所也。登時ノ郷老(三内作内)相議メ曰、古自吾州、煑䀋之制佗邦與。異故ニ其利亦微如今、天下之好䀋ヲ擇ニ、播州明石干諸邦ニ冠如不。其人ヲ干此ニ招、其法師、其術習。以功ヲ成。利ヲ矣仍テ逞ニ、播州往師請。来ル具ニ其制傳。(以下略)
『奥羽観蹟聞老志』著・佐久間洞巖 「波止上䀋竈」 より
せんさん資料室に国会デジタルコレクションの当該箇所のURLが貼ってあります。全文読みたい方は、そちらからアクセスしてください。
ん?あなた、今、漢文ベースなんで拒否りたくなったでしょ!
もとが漢文なので、目を瞑りたくなりますが、安心してください。三丈も、中一レベルの漢文知識(レ点とニ、- くらい?)とグーグルセンセーを駆使して読んでますから。で、なんとなく眺めてれば云わんとすることは見えてますよね。
塩の場を設けて、天和三年に始めて興したところだよ。郷の老人が相議した、天下(名高い)の良い塩は播州明石(赤穂)が冠して疑いない、その法、その術を習って成し遂げたい。そこで播州往って、師が来て伝えられた。
ほーら、漢字だらけのようで、わかりそうなところを抜き出して、意味をつなげただけでもイメージつかめたじゃない。
そして、佐久間先生のこの文章、『封内風土記』(仙台藩の地誌)、『封内名蹟誌』(『封内風土記』の補完本)、『封内土産考』(仙台藩の名産・銘産の考察本)にもほぼほぼ転載され、仙台藩領下の記録として残されている。そんな『封内土産考』の一コマがこちら。
一 花鹽
仙臺叢書第三巻『封内土産考』 花鹽 より
本吉郡波止上名産なり。其製に於る。草木・枝葉・花實・蟲魚・器物の形を造り焼けり。尤君上に獻す其美作言語に逮はす是を華鹽と云ふ。
波路上塩田では、6〜7割くらい仕上がった、ねっとりした塩を型に流し、焼き固め、様々な形状に模した「花鹽」という贈答品が作られていた。郡誌類を読むと、藩主が贈答用や宴の席で来客を驚かすために使われていたようなので、一般的なものではなかったのだろう(うーん、庶民はかまぼこで代用?)。ただ、仙台領下の名産「波路上花鹽」として、諸藩に披露し、良質な塩の生産をPRしていたといったところでしょうか。
まぁ、なんです、ヨーロッパの貴族が、娘の肖像画入りのカップアンドソーサーを、来客に手土産として持たせていたのと似た感じですね。貴族は、お見合い写真を配るように土産をもたせたけど、仙台藩主はある意味でお国自慢の広報活動に熱心だったと。
仙台藩の塩の専売権がなくなっただけではなく・・
これはゴシップ!それとも講談?小話できるはちょとした有名税!?
さぁ、藩主自らがお国自慢のように利用していた波路上塩田のお塩。これには、実は、こんなゴシップも存在している。
一、肯山様御代。播州赤穂の燒鹽を如何にもして。(中略)ときに本吉郡志津川。同郡波路上。登米郡米谷邊の者共七人。存慮を申上各用路の外に。金五十兩づゝ被レ下赤穂へ参候て歳長けたる者は。後夫に入若年の者は婿に入候て金子を以て。進退取拵候故。先方氣に入候て七年居候内。子共も相出候故。鹽の製法不レ殘傳受申候。(以下略)
仙臺叢書第六巻『老人伝聞記』捨遺老人伝聞記 より
これは、『老人伝聞記』という、誰が書いたか知らないけれど、こんな話を聞きましたという、真贋入り混じった小話集。講談かなにかだと思えば、「面白おかしく盛られたお話ですね」という江戸・明治のゴシップ、週刊誌ネタ。まぁ、そんなところ。
なんでしょう、肯山様(四代藩主綱村公)の時代、路銀をそれぞれ50両持った本吉郡の7人が、播州赤穂に7年にわたる潜入調査。中には婿入りして子も授かったと。そして、門外不出の秘技を余さず手に入れ、仙台領下へ、と。ちなみに、引用で「以下略」としたとこには、浅野内匠頭や大石内蔵助も登場し、「さすが大石!」みたいな結びになっている。さながら劇場版『スパイ大作戦〜塩の秘技を手に入れよ!〜』である。せっかくなら、7年、7人、70両で、忠臣蔵サイドストーリー短編時代劇『㐂の塩師』なんてのがあってもよさ気である。
で、上記のような小話ができるほど、隆盛を誇った波路上の塩田。概要でもお伝えしたように、およそ200年でその役目に幕を閉じることになる。最終的にトドメをさしたのは、明治29年の海嘯になるのだけれど、そもそも明治維新をむかえたことで、衰退の一途をたどっている。
赤穂の技術で、重要な役割を果たした塩田は、なぜ衰退していったのか?
仙台藩は、奥羽越列藩同盟で、会津側に立つわけですが、結果敗軍。幕府公認で握っていた塩の専売権もうしない、価格の統制もできず県内にあった塩田をつぎつぎ手放している。当然、波路上塩田も民間に移り、塩田の維持につとめますが、ここで大きな問題が生じます。
さて、それは何でしょうか?ヒントは、「山」。
海のことなのに「山」とはこれ如何に?でしょうか。まぁ、『森は海の恋人』って云うくらいですから。
ということで、答えは、薪(燃料)の確保に難儀したから。
仙台藩が関与していた時代、製塩用に燃料を供給する山林が確保されていました。これを御塩木山といい、波路上の場合は気仙沼市の新城、月立(『階上村誌』では、築館となっているのだけれど、『宮城県風土記』を見る限り八瀬川の方の「月立」かと)、南三陸町の歌津と、三陸沿岸に後背ひかえる山々に確保。それぞれの山林には、御山守という役が与えられ、随時薪が供給されていたとのこと。
要するに、藩政時代は、薪(燃料)が無尽蔵につかえていたのだけれど、明治維新後は、その確保と代金に難儀した、と。結果、民間では非常に厳しい状態に陥り、衰退していくことに。そして、概要でお伝えした、明治の海嘯により幕を閉じるにいたった、というのが波路上塩田の歴史である。
仙台藩、赤穂義士に粥をふるまっていてもおかしくない理由
藩祖政宗公以来製塩に力を注ぎ、赤穂式の導入により飛躍的に向上
ここまでは、気仙沼市の波路上およびその塩田にまつわるあれこれを、史料・資料をまじえながら見てまいりました。ここからは、仙台藩とお塩について浅掘りしつつ、サブタイトルなどに使った赤穂浪士云々というお話につなげていきましょう。(えっ?「前置き長すぎだ!」って?? まぁ、引き続きお付き合いくださいまし。)
藩祖政宗公、塩づくりに力を注ぐ!
仙台藩は、藩祖政宗公の時代から製塩に力を注いでいました。政宗公は、徳川から陸奥国62万石を拝領し、仙台領下に入るとほどなく、駿河流と呼ばれる製塩を導入。ほかにも常州・総州(今の茨城県や千葉県)に人を派遣するなどし、諸国の塩づくりを学ばせている。そのため領内の沿岸各地に塩田が作られているのだけれど、そのことは波路上花鹽で引用した『封内土産考』の続きの文章からも、よく知ることができる。
又世に常に用する鹽は。場鹽素水とて。採る法兩手段なり。宇多郡今泉今神。亘理郡大畑・長瀞・箱根田・島屋崎。宮城郡高城鄕礒崎。桃生郡深谷鄕大塚。牡鹿郡長留・渡波。本吉郡奈屋脇・鹿折。気仙郡大舟渡。等場鹽を出す。その法左に記する所なり。又素水と云。海畔に草舎を設け。中に竃を造り海水を汲んで竃中に入る。其儘煮る事なり。封内所々多し
仙臺叢書第三巻『封内土産考』 花鹽 より
製塩法などはさておき、宇多郡今泉(現在の福島県相馬郡新地町)から気仙郡大舟渡(岩手県大船渡市)まで、南北にわたり広大な沿岸線に、まんべんなく塩田があったことが伺いしれましょう。なお、引用文のなかで、本吉郡奈屋脇とありますが、今の内の脇(気仙沼市)のことである。
どうして、仙台藩は塩づくりに力を注ぐ必要があったのだろうか?
では、なぜ、仙台藩は、こうも塩田づくりに力を注いだのでしょうか?
まぁ、余談てきなことで云えば、海は目の前にありますし、無尽蔵に海水という資源はありますので、活用しない手はない感じでしょうかね。ただ、入浜式塩田をはじめる前は、非効率に薪を大量に使い、禿山をつくったなどとも言われてますので、ご利用は計画的にね!というところ。
また、伊達政宗は、徳川家康に「仙台糒(蒸して乾燥させたお米。現代で云えば防災用のアルファ米)」を自慢したなんてお話もありますので、兵糧の一つとして塩を必要としたというのもありますかね。
なお、蕃山房が出している「よみがえるふるさとの歴史」というシリースの『慶長奥州地震津波と復興〜四◯◯年前にも大地震と大津波があった〜』(著・蝦名裕一)によれば、津波によって塩害にさらされた土地の有効活用、そんな見解になってたりしますが・・
さてさて、あなたのお答えは?
先ほど「なぜ?」を3つのポイント、(1)物流、(2)食、(3)財政、にフォーカスしてちょっと考えてみましょうか。ということで、それぞれみて行きましょう。
(1)塩は物流に欠かせない
冷蔵庫も保冷車もない時代、食品に限らず、保存してものを運ぶ、となれば塩の役目は大きい。そもそも東北地方は、各県それぞれが広い。実は、3県だけでも、九州7県分の広さがある。したがって、東北6県を九州の各県サイズにすると、13〜5県あってもおかしくない。広大な領下において、保管・運送という面で、塩はそもそもと重要な資材になっていた。
(2)長い冬を過ごすに、保存食は欠かせない
物流ともかぶりますが、魚の干物や塩漬けほかで、やはり必要な材料のお塩。『肯山公治家記録』(四代藩主綱村公の時代の記録)をみていると、四季折々、各所に贈答品をだしていて、塩鮭、鮭子、塩鮎なんて言葉が頻繁でてくる。例えば、「立花家、塩鮭、柳川に飛脚贈送」とか。伊達家から福岡の立花家には将軍家経由で嫁いでいるので、親類としての季節のごあいさつに「鮭の塩引き」といったところ。ちなみに、柳川の旧藩主立花邸御花にある日本庭園松濤園は、松島を模してつくられている。
また、これは名産ということになるのでしょうが、仙台味噌。豊富なお米や大豆と贅沢に塩を使うのがキモなのだとか。地場産品にも欠かせない。
(3)第二、第三の米を作って、財政を潤せ!
仙台藩は、あまり財政が豊かな藩とはいえませんでした。理由は、100万石拝領すると思って、それに応じた人を抱えたら、実際は62万石。家康からは、未開の土地が多いし、うまくすれば100万石にも120万石にもなる。だから実質100万石の意味じゃ!と、、、云われた政宗は「・・・・・(内心「やべー、リストラどうすっぺ・・」)」。
幸いなことに、新田開発などで江戸市中でも仙台米は3割近く普及(飢饉のときなどは7割近く)。そこで、第二、第三の主力商材を求めるなかで、産業育成のひとつに塩田が含まれていた。
このような事情もあって塩田開発にも力を注いでいたと。そんななか、赤穂藩からもたらされた技術は、塩の質・量ともに向上するのに役立ったのでした。そう考えると、仙台藩にとって、赤穂藩は感謝しかない藩だったと云えましょう。
【閑話】仙台領下の二大塩田、渡波塩田と東田塩田
仙台領下の二大塩田としては、東田塩田(現・東松島市)と渡波塩田(現・石巻市)がある。
前者をはじめた奈和良元直の祖先が、駿河流の製塩(鉄釜で海水を蒸発させる初歩的な方法)を上記引用文中の島屋崎・礒崎・渡波で展開をしたとされている。なんでも政宗公に仕官すべく長州から出てきて頑張ったのだとか。
また、後者は菊地輿惣右衛門(現・石巻市の旧稲井村)がお伊勢参りの帰り道、今の東京ディズニーリゾートあたりの行徳塩田を目にし、観察し持ち帰り、流留(上記引用文では長留)にて入浜式塩田を開始。同じ、万石浦(石巻市)で隣り合わせの渡波が教えを請うて一円で拡大したとのこと。
なんとも旅はしてみるものですねぇ〜(まぁ、三丈は出不精なんですけどね)。
藩主が巡見し、塩師らに直接、その労もねぎらう
岩塩ではない日本だからこその創意工夫の結晶が塩づくり
公益財団法人塩事業センターが運営している塩の情報サイト『塩百科』。この「日本の塩づくりの歴史」というページは実に興味深い。古代から現代までの塩釜の変化など、へ〜、ほ〜、ふぅ〜んである。ほかにも、海水濃度はだいたい3%くらいなので、1リットルの海水からとれる塩の量は30gであるとか、なるほどである。
それで、1リットルの海水から30gということは、お風呂の浴槽(およそ300リットルくらい)の海水で、9kgくらいつくれるということ。ケトルの水1リットルをガスコンロに火をかけ放置していたら、小一時間もしないで空になる。けれど、風呂桶いっぱいを蒸発させるのに、時間と燃料はどれくらい必要だろうか。
時間と燃料を同じにして、塩の量を向上させようと云う知恵。それが塩分濃度の濃い「かん水」をつくる手間であり、そこで生み出されたのが、海藻に塩分を付着させる(藻塩草づくり)、人力で砂に塩分を含ませる(揚げ浜式塩田)、自然の塩の満ち引き利用する(入浜式塩田)といった技法だったと。
仙台藩、赤穂藩のおかげで急速に塩づくりの技術を向上させる
これを仙台藩が開かれておよそ50年くらいの間に展開している。そんなわけで、塩の生産量が増大するのは当然のことだろう。そこに播州赤穂の技術は、質の飛躍に貢献していくことになる。そんな様子を『奥州仙臺領遠見記』という、仙台藩の地誌というか、社会系情報誌?から引用してみましょう。
波路上浜汐煮方する所なり。(中略)塩場も余所のよりは綺麗なり、釜もこゝは石釜なり。六七寸計づつの平に成る石をならべ、ねた土に間々をぬりかため、ふちを立て、大きさ六、七尺位鉄釜のごとく拵え用するなり。能程汐を煮方損出れば拵え直し用ゆるなり。又釜の後方へ三四尺計りの瓶のごとく鉄にて拵えぬるめ釜とて仕掛けおき、上の釜にて塩を煮、そのうちに、このぬるめの釜へ汐を汲み入おき、ぬるみたるを釜へ移し煮るなり。塩になること早く薪のいり劣るよし。此所の塩は至つて白く、綺麗にて気味よし。こゝより仙台へ御膳前の塩をも納めるなり。御塩藏も御膳前は別にあり。(以下略)
『奥州仙臺領遠見記』波路上浜塩場 より
仙台領下の多くの塩田・製塩が鉄釜を使って海水を蒸発させていたのに対して、ここではいち早く石釜を導入していたらしい。これは、石を並べ、ねた土(粘土)で固め、縁を立ててフラットな鍋状に形成したもの。で、石は、熱を保つので熱効率も向上、また、予熱釜として鉄釜を利用し、そこから石釜に移すので、水分を蒸発させる時間の効率もさらに向上。予熱釜を沸かす手間もかかるものの、こういったひと手間が、より白い塩の生産に結びついていたらしい。
塩師の見なれない技に、藩主も興味津々、詠歌を残す
そんな結果として、波路上の塩は、藩主御用の上塩として取り扱いが異なっておりましたとさ。このような経緯もあり波路上塩田には、仙台藩中興の祖と云われる五代藩主伊達吉村公も足を運んでいる。そして、その時の様子を次のように記している。
(亨保八年二月)二十一日、爰を出てはちかみの浦にいたる。あまの鹽やく家居あまたあり、たちよりて見侍りけるに、なれぬしわざのいとめづらかにおぼえて、浦のものしてくはしくたづね侍りけり。
『続隣松集(中巻)』 海浜歴覧記 より
めにちかく 見てこそはしれ あさふゆに 鹽やくあまの からきしわざも
浦風の折しも煙ふきしきて、波路もさだかならざりければ、
もしほやく けぶりを色に ふきなして 波路のすゑも くもるうらかぜ
爰(ここ)を出てとは、2日ほど滞在していた気仙沼のこと。波路上塩田にきて興味深く、塩師にあれこれレクを受ける。そのときに歌を詠んでいるのだが、三丈的超絶現代意訳をすれば、、、
見ると聞くとで大違い!塩師の仕業は、立ち上る湯けむりの如く、めっちゃアゲ age↑
ん? ふざけすぎたって? 失礼いたしまたー。
ところで、吉村公は、この時、「地獄が崎」と呼ばれていた場所の呼び名を改させている。どう改めさせたか?それは「祝崎」。そう、現在の「岩井崎」のことである。藩主に、目出度いところ、と思わせるものが、この土地にあったということでしょう。
ちなみに、なぜ地獄が崎か?それは、「よく船が座礁したから」とされている。
綱村公、仙台藩上屋敷(通称:浜屋敷)に神社を勧請する
五代藩主吉村公から、時計の針をちょっと戻し、四代藩主綱村公もこの地にも足を運んでいる。上の画像は、肯山公治家記録 後編巻七十八(元禄9年6月-8月の記録)で、四代藩主綱村公の時代の記録になる。現在、叡智の杜Web(宮城県図書館)で公開されているもので、これは、寫本。要は、書き写したもの。なので、写し手によって字が乱れ、ちょっと読みにくい。
それはさておき、残念ながら、肯山公治家記録からは、波路上村塩場御覧と塩師に褒美をとらせたことくらいいしかわからない(地元の記録では、裃を許し褒美を取らせたとかなんとか)。まぁ、企業の業務報告まとめたようなものですからね・・。正直、吉村公のように筆まめで、「紀行文的なものがあれば・・」と思わないではない。
綱村公の時代の波路上塩田と赤穂藩をめぐるプチ年表
さて、この時代に、『忠臣蔵』のお話のもとになる「赤穂事件」が起こるわけですが、それに関連して、綱村公と塩にまつわるプチ年表が以下となる。
和 暦 | 西暦(年) | できごと |
延宝八年 | 1680 | 佐藤三右衛門、赤穂藩に立ち入る |
天和二年 | 1682 | 波路上塩田開設(赤穂藩塩師派遣) |
天和三年 | 1683 | 波路上塩田稼働(赤穂藩塩田用大工派遣) |
元禄三年 | 1690 | 波路上塩田にて、当初の3倍の製塩 |
元禄六年 | 1693 | 隣村、岩尻をまじえて御詠歌 |
元禄八年 | 1695 | 汐留の浜邸に鹽竈神社を勧請 |
元禄九年 | 1696 | 綱村公、波路上塩田巡見、佐藤三右衛門没 |
元禄十一年 | 1698 | 鹽竈神社の現在の社殿を寄進 |
元禄十四年 | 1701 | 松之廊下事件(支藩の一関藩屋敷にて浅野内匠頭切腹) |
元禄十五年 | 1702 | 仙台藩、討ち入り後の赤穂浪士に粥を振る舞う? |
これまでの文章を、単に時系列にならべるとこんな感じ。「おやおや」と、降って湧いた感があるのが、元禄六年と元禄八年、元禄十一年でしょうか。そのあたりをちょっと確認して行きましょう。まずは、元禄六年から。
綱村公、詠歌をのこし、三陸沿岸の復興をよろこぶ
元禄六年(西暦1693年)、綱村公は、次の歌をのこされたとされている。
藤原朝臣綱村
ふることの ためしを誰も 岩尻に 今を春べと 黄金花咲く
三丈個人としては、元禄九年の巡見のおり、岩尻村の瀧上神社(現在の気仙沼市立大谷小学校のとなり)にお立ち寄りになり、詠まれたものではないかと思っている。ただ、『嚮館跡ー防災集団移転促進事業・災害公営住宅整備事業(大谷地区)に伴う発掘調査報告書ー』(気仙沼市教育委員会発行)によると、元禄六年に詠まれたものとされている。なので今回は、この記載に準拠している。
さて、この詠歌をどストレートに理解すると、、、
古より聞こえし岩尻の金、その報を耳にして、こころ騒がせずにはいられない
と産金を喜んだ歌のように見えるてくる。まぁ、先の、嚮館跡についての報告書でも気仙沼・本吉地域の産金を象徴する詠歌のような記載にもなっているしね。ただ、この歌を品のない表現であらわせば、、、
岩尻で金がとれたんだって、よっしゃラッキー!
である。正直なところ、これでは風情もへったくれもない。
この詠歌の解釈については、別の機会にと考えているが、岩尻村の大谷宿(現在の気仙沼市本吉町大谷)は、慶長の地震および津波で大きな被害を受けている。そして、綱村公の元禄九年の巡見後、仙台にあった良覚院(現在、仙台市大町にある良覚院丁公園および茶室は、このお寺跡)のお坊さんの勧請のもと、瀧上神社の不動堂がつくられたとされている。
この神社には、次の代の吉村公も訪れていて、綱村公の詠歌を郷のものから教えられのこしたのが以下になる。
左中将吉村
見てぞ知る ふかき心に たらちねの こゝにも殘す 水莖のあと
たらちねは、母心や親心。水莖とは、筆跡のこと。この詠歌を、
来て、見て、そして知る、先代の民を思うこころが、御歌の先に浮かびて見える
こんな感じに訳し、水莖を「ふることの〜」の詠歌とするならば、黄金とは、産金のことではなく、岩尻という地名に対する掛詞のようなも。そして、かつての被害から復興をとげ、豊かに変わっているそんな様子のことではないのか、と。このような解釈でいくならば、この「黄金」という言葉の中には、当然に波路上の塩も含まれていると理解して構わないのだろう。
うーん、階上中学校の校長で定年退職を迎えたと聞いた気がする国語の先生、たしかS先生は、この訳に何点つけるだろうか。まぁ、めっちゃアゲ AGE↑には、ケツバットかな〜(笑 なんとものどかな昭和の話である。
ふたつの鹽竈神社がものがたるもの
つづいて、元禄十一年、綱村公は、鹽竈神社の社殿を寄進している。完成したときは、吉村公の代に変わってましたが、何れにしても、現在の社殿はこのときに建造されたもになる。まぁ、補修・改修はされているのでそのままではないけど。だとしても、およそ300年にわたり維持されているのは、素晴らしいことである。
さて、鹽竈神社が祀っている神様は、塩土老翁(シオツチノオジ)。日本人に塩作りを教えた神として、知られる。博識であり、あらゆることを知っているとのことで、「導きの神」として崇敬される。江戸時代の気仙沼の漁師にとっても、縁のある神社だったらしい。なんでも、雪代(春先、雪が溶けて川に流れ込んだ冷水)もとれた5月の中ごろ、仕込みを終えて港をでる。そして、6月ころ鹽竈神社で手を合わせ、そこから金華山沖でカツオ漁をはじめるのが習わしだったのだという。まぁ、その年の漁を導いてもらいたかったのでしょう。
そんな、塩土老翁に同じく導いてもらいたかったのか、綱村公は、仙台藩上屋敷(浜邸や芝公邸と呼ばれる)に鹽竈神社を勧請している。それが、社殿寄進の少しまえの元禄八年のこと(プチ年表に記載したたとおり)。なお、安政三年四月、愛宕下の仙台藩中屋敷に移築。それが現在の東京都港区新橋にある新橋鹽竈神社になる。なんでも江戸っ子は、屋敷内の神社にも関わらず、潮の満ち引きが出産に影響するとの迷信から、潮(塩)にあやかって安産祈願に足を運んだのだとか。
東京都神社庁サイトよりの鹽竈神社
講談の「仙台藩が赤穂浪士に茶・粥を振るまった」の理由とは?
元禄三年には、赤穂の技術の塩の取れ高が3倍にもなったと報をもらい、元禄六年、「黄金花咲く」と塩も含めてその地域を喜び、元禄八年には、領内の塩が「お江戸でも普及しますように」と云わんばかりに浜屋敷に分社した鹽竈神社をつくり、元禄十一年、おおもとの鹽竈神社の社殿を寄進。こうも塩に一入(ひとしお)ならば、そりゃぁ、仙台藩、赤穂の義士に粥の一つも振るまいますよ。
そんなわけで、講談の「仙台藩が赤穂浪士に茶・粥を振るまった」の理由とは? という問いへの三丈的回答は、「塩に一入(ひとしお)だったから〜」である・・(だから、はじめにしるしたでしょ〜、今回の見出しは釣り見出しだと!!!)
気仙沼という土地は、内と外の融合を強みにして発展
カツオの水揚げ高が多いことも、そもそも外との融合から
せっかくなので、気仙沼という場所についても少し記しておきましょう。まずは、以下に、仙臺藩主第五世伊達吉村(獅山公)巡遊紀行から波路上に足を運ぶ前の部分をを引用しましょうか。
気仙沼といへるかたにとゞまりぬ。爰もおなじうみべながら、此ほどのやどりにはかはりて、波風の音もしづかに人のけはひ、さとのありさまも、おなじいなかのうちながら、いさゝかたちまさるやうになむみへ侍る。
『続隣松集(中巻)』 海浜歴覧記 より
波かぜの 音こそかはれ うみちかき やどりはこゝも おなじかりねに
さくっと、意訳すれば、、「気仙沼ってところに滞在したよ。ここも同じ海辺で田舎だけど、賑わいや街並みも他所とはちょっと違うよね」といったところでしょうか。
藩主の目にも違って見えた理由とは?
藩主が数日過ごし、「他所とはちょっと違うよね」と感想を述べてるわけですが、では、なぜ他所とはちがったのでしょうか? 単純に、遠いわりには栄えてたってことなのでしょうが・・。栄えてた理由は、採金?漁業?
まぁ、これは「廻船」によるところが大きかったのでしょう。気仙沼は、仙台領下において石巻につぐ、湊(ちなみに石巻は、「奥州随一の大湊」と称されていた)。廻船による恩恵は大きくて、石巻にしても気仙沼にしても、「仙台城下より早く江戸の流行りモノが入った」なんてことはよく云われること。
気仙沼からは、米のほか、煙草や海産物などがお江戸や銚子あたりまで運ばれていて、何気に商いのため往来も多かったらしい。そんな一端が垣間みれるエピソードとして、伊能大図の伊能忠敬が気仙沼に宿泊したときのお話がある。
仙台領下では、仙台藩士がに伊能に随行し、宿泊先などをコーディネートしている。その日の進捗状況や天候に左右されるので、ゆく先々で、都度つど肝入(まぁ、地区長さんみたいなもの)を中心に宿泊させてもらっておりましたとさ。気仙沼で藩士が声をかけて手配した宿泊先は、米商宅。実は、伊能の本家も、今の千葉県佐倉市でやはり米の豪商。そして、ちょうど一年前、なんでも佐倉の本家で米屋の主と伊能は挨拶を交わしている。伊能は日記に、仙台領下では「2つ、不思議の縁があった」と記しいて、これはその一つのお話。
また、廻船によるところが大きかったのであろうという推測は、仙台領下での寺子屋の数からも伺い知れる。なんと、三陸沿岸は、仙台城下よりも寺子屋の数が多かったらしい。まぁ、土地が広いからというのもあるりましょう。でも、食べていくために廻船に乗るなら、読み書き算盤は必定でしょうし、寺子屋が多いのもうなづける。そして、その食べていくための実学が、明治になって気仙沼向洋高等学校の前身にあたる水産学校を民間から創ろうと機運をたかめる地域性にも結びつく。
少なからず言えるのは、むかしも僻地のようでありながら、外とのつながりと新しい情報がこの地域をささえていたということをうかがわせるエピソードである。
鮪立の御殿、鈴木家がもたらした鰹の恩恵
話はかわるが、三丈の家は、もともと唐桑のあたりの出らしい。なんでも鮪立の御殿の定置網で働いていたとのこと。いよいよ隠居生活をすることになったとき、雇い主から一つの申し出があったと伝えられている。それが、「気仙沼から牡鹿半島の先まで好きな山を云え、長年の功績に褒美として与えてやる」とのお話。ここで三丈のじいちゃんのじいちゃん(近くて遠い祖父の祖父)は、「山もらっても、なにしていいかわがんねぇ〜がら、小さくていいんで、どこか浜辺に土地をくれろ〜」と願いでる。そこで小舟をだして、余生をすごしていたらしい。これが江戸の終わりのころ。残念ながらその土地は、明治の海嘯で失い、東日本大震災後は嵩上げされ国道45号線の一部として人々の生活をささえている。
さて、ここで出てきた、唐桑で鮪立の御殿と云えば、肝入をしていた鈴木家のこと。この鈴木家が紀州の鰹船団を呼び込み、教え乞い気仙沼が鰹で名を馳せていくことは、よく知られたお話である。外のものを内なるものと融合させて、発展していく。あれ?波路上の塩田も外からの・・
仙臺海苔の床しい香は、気仙沼からはじまった
昭和5年とちょっと古い書籍に『東北の秘史逸話. 第2輯』 著・富田広重 (史譚研究会)というものがございまして、その中に「創業者の苦心奥州紀文ー仙臺海苔の床しい香ー」という章がある。これは、横田屋新兵衛のお話で、現在の横田屋本店が気仙沼で海苔の事業を始めるにいたる物語が記されている。
博打打ちっぽい商売っ気から、あれこれ手を出しては失敗。さらには、廻船の船まで難破して失う。そんな起死回生の策として、江戸湾でみた海苔の養殖を気仙沼で!と始めた経緯がこと細かく読むことができる。これまた、外のものを内側で昇華したってことでしょうか。
地域外にあるものを、内側の勤勉な人らが、地道にコツコツ働きながら、常に情報のアンテナをはり活かす、それが、気仙沼、三陸沿岸の土地柄なのかなと・・。そして、三陸の沿岸が、今後も漁業と向き合うならば、北欧的な漁業の仕組みの逆輸入が、一つの活路なのかなと。そうでなければ、SDGsだの、サスティナブルだの云われるこのご時世のなか、魚蝦で商売をする機会が奪われかねないのではないだろうか(まぁ、外にいる人間の勝手ないいくさだろうけど・・)。
「シ」オーシャンズ・セブンの秘密基地、岩井崎の塩づくり体験館
ところで、ちょっと上の方で、『老人伝聞記』からの引用文を用いてました。まぁ、週刊誌ネタかのように紹介してましたが・・。ただ、「詐欺師は真実を織り交ぜながら人をだます」などといいますが、ゴシップやタブロイドも真実が織り交ぜられていなければ、記事にはみえなくなってしまう。そこで、「捨遺老人伝聞記」で中略としていたところを、あらためて見てみよう。
肯山様御代。播州赤穂の燒鹽を如何にもして。傳ばやと被ニ思召-けれども。淺野家とは御不通の御家なれば。御手寄も無レ之尤彼地にて。法を秘し候故に。下下によりて求むべき由もなし。
仙臺叢書第六巻『老人伝聞記』捨遺老人伝聞記 より
引用の中身は、、、綱村公は、播州赤穂の製塩法をなんとかして領内に広めたいと考えたけれども、浅野家とは不仲で不通で、当然につてもない。さらには赤穂では製塩の方法を門外不出とし隠している。トップダウンでことを進めるのもままならず・・。そこで登場するのが、オーシャンズ・11ならぬSio-シャンズ・7! ん? こんなところでしょうか。
江戸時代、仙台藩と広島藩は、幕府公認?で仲がわるい。理由は、伊達政宗公が広島藩の浅野家に絶縁状を送ったから。「お前とは仲よくしてやんね〜よ」である。赤穂藩の浅野家は、広島藩の分家筋にあたる。したがって、本家が仲たがしているのに、仙台藩と仲良しというのは、ちっとむつかしい。
そして、柳川藩の立花家によく季節の挨拶をしていると、だいぶ上の方で記してました。同じように、綱村公は、備前の岡山藩の池田家にもよく塩鮎などを贈っている。仙台市には、孝勝寺という寺院がありますけれど、ここは綱村公にしてみれば孝勝院(祖母)の墓所になる。その孝勝院は、池田家から嫁いでいる。
そんな赤穂藩と岡山藩、地理が得意な人は「ぴん!」ときているでしょう。そう、お隣同士の藩。池田家をつうじて、赤穂の塩田について、綱村公も耳にしていておかしくない。ゴシップも、ちょっとホントのことを散りばめると、真実に見えてきちゃちゃう「ふ・し・ぎ」。
波路上明戸の御伊勢崎は、気仙沼の小さなモン・サン・ミッシェル
赤穂藩が、宮城の、気仙沼の海に生きる民の糧をもたらした事実は、消えることはない
以前、神戸新聞NEXTという新聞社のサイトの記事に、
仙台に製塩伝えた記録を収蔵 赤穂・歴史博物館、21日から特別展
というものがありました。一部引用すると、、
・浅野内匠頭長矩(ながのり)の家来の役人に頼み、熟練の職人(浜男)2人を連れ帰って2年間雇ったと記す。
神戸新聞NEXT「仙台に製塩伝えた記録を収蔵 赤穂・歴史博物館、21日から特別展」2020/11/19 05:30配信記事より
・その職人2人が赤穂藩の江戸藩邸に送り届けられたことを記録。
・このほか、仙台に派遣した浜大工(釜焚夫(かまたきふ))の給金を取り決めた書状など
こういう記録を、兵庫県赤穂市立歴史博物館の企画展で展示していたらしい。上記のような書類や記録が残っていて、委細すべてを知っているわけではないにせよ、藩主浅野内匠頭に「まったく報告がない」ということは、正直なところ考えにくい。
本家筋が不仲であるなか、黙認か、承認なのかは分かりません。ただ、浅野内匠頭の温情が、みやぎの、気仙沼の海に生きる民の糧となっていた事実は、塩田が失われた今でも、消えることはない。
ところで、三丈ですが、以前この赤穂市立博物館に足を運んだことがありました。そして、その日は、なんと閉館日・・(調べてから行け!)。と、こんな黒歴史も、消えることはない。
むすびにかえて、うしろ髪ひかれる藩主のこころと波みちのすゑ
なんとなく、オチもついたところで、波路上にまつわる吉村公の一コマで、今回の長編コラムをしめていきましょう。
亨保13年の秋、五代藩主吉村公は、再び三陸の地を鷹狩しながら数日を過ごす。そんな旅の終わりに差し掛かるころに・・
ちかきうちにこゝをたちて帰路におもむかむとせしに、あかつきの月のさしいでたる影の海にうつりて見えけるさま、いとこゝろ残りおほく見るところあり。
秋の月 あかすもかへる 名残しれ 波路のすゑの 影をみすてゝ
『続隣松集(下巻)』 磯のかりね より
大谷宿(岩尻村)より、波路上の此なた、沖の田からお伊勢浜をみつめ、みなもにはえる月の影に、うしろ髪ひかれるもの悲しさを、旅路のおわりに感じている、そんな姿をうかがわせる詠歌と推察いたします。
そんな姿も、今では見渡す限りの防潮堤。防潮堤に後ろ髪をひかれる方はいますまい。されど、沼尻海岸から岩井崎にかけて、元寇の防塁を覆い隠す「生の松原(福岡県)」のような奥行きのある松原がつづいているならば、吉村公も再びうしろ髪を引いてくれるのかもしれない。そんなことを思う、今日このごろである。
[参考史料]
『本吉郡誌』
『和名類聚抄』
『日本先住民族史』
『観跡聞老志』
『階上村誌』
『捨老人伝聞記』
『封内土産考』
『奥州仙臺領遠見記』
『続隣松集(中巻)』 海浜歴覧記
『続隣松集(下巻)』 磯のかりね
『東北の秘史逸話. 第2輯』 著・富田広重 (史譚研究会)